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  たわごと編: No.348  
  2016.06.06 正義の基準_うさんくささを見抜く  
 
  「「リベラル」がうさんくさいのには理由がある(橘玲・集英社)」という本を読んだのだが、日本のリベラル(左翼)は世界標準(グローバルスタンダード)のリベラリズムとは異なるものだそうである。本来リベラリズムとは近代主義の思想で、その歴史的起源は、啓蒙(理性によって因習や迷信を打破し、その抑圧から人間を開放する思想運動)と寛容(宗教改革で始まったカトリックとピューリタンの血なまぐさい戦争をおわらせるための共存の技術)であり、啓蒙と寛容を両輪として成熟させて来た「正義の思想」ということらしい。

いまの日本のリベラルは戦後民主主義にしがみつき、反権力(いつまでたっても権力は持てないこと前提で主張するだけ)、反米(共産主義国家は崩壊か変質しているのに共産主義国家親ソ親中より親米が正しかったことを認めない)、そして平和憲法護持(現実的世界情勢とかけ離れた空理空論の空想的平和主義)から決別できないでいる。

戦後の日本のリベラルの特徴は傲慢なエリート主義である。自らの無謬性にこだわり、歴史を直視しない。その挙げられている印象的な一例だが、沖縄の平和主義は日本軍は自分たちを守ってくれなかったという沖縄戦の悲惨な経験に裏打ちされている。それにもかかわらず今の憲法では、軍隊(自衛隊)が沖縄県民ならず全国民の生命と財産を守るための組織と書いていないことを問題にしない。リベラルこそが憲法に自衛隊の存在を明記し法の支配の下に置いて民主的に統制するよう主張すべきなのにもかかわらずである。その他いろいろリベラルのうさんくささの事例が載っている。私がリベラル(いまの民進党の一部、社民党、共産党や朝日新聞などのリベラルメディアあるいはリベラルらしき有識者など)になんとなく違和感を感じてきたのもそういうことかと納得することがあった。

エピローグでは「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください(井上達夫著・毎日新聞出版)」という本の内容を引きながらまっとうなリベラリズムを再生させるためにはと論じているのだが、「うさんくさい理由という本」の大部分はこの本が出る前に書かれたものらしいが、この本に触発されて書いたかと思わせるところがある。興味が出てこの本を注文してしまった。

リベラリズムは、啓蒙主義重視で取り込まれると理性の独断化・絶対化でソ連(強制収容国家)、中国(文化大革命)をもたらし、またアフリカの民主主義国家では民主選挙から独裁が生まれ、アメリカのリベラルデモクラシーの理想はイラクの惨状をもたらしている。またバルカン紛争では寛容を金科玉条にして紛争をただの内政問題だとして目をそらし民族浄化の悲劇を招いている。

このようなことを回避するには、リベラルな政治体制と異なる伝統や文化を持つ社会に対しても、それが許容範囲を超えなければ互いの違いを認めて共存していくしかない。リベラリズムは理性重視でも寛容称揚でも問題がある。啓蒙と寛容を両輪として成熟させて来た「正義の思想」を実践することである。主張は正義の基準を満たさなければならない。

正義の基準(正義概念の規範的実質)とは
・反転可能性(自分が受け入れられないことを相手に課してはならない)
・ただ乗り禁止(コストを払わずに利益だけ得るのは不正である)
・二重基準の禁止(ダブルスタンダードを使ったご都合主義を許さない)

私もひとの意見や世の中の言論を曲がりなりにもこういう視点から見て来たようには思ってはいるが、自分の言動もその視点に耐えられるようにしたいと思っている。

(関連記事)
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